こんにちは、歩き方コンサルタントの篠田洋江です。オンラインウォーキングスクールを運営しています。
前回からすっかり間があいてしまった。何かあったのではないかと心配されもしたが、単純にさぼっただけ、ごめん。それにしても連載コラムが高円寺で良かった、さぼっても怒られない懐の深さがある街だから。
■高円寺の銭湯へ
「あぁ、今日は銭湯に行きたい」そんな日が定期的にやってくる。
毛穴から吹き出る汗がそのまま体にまとわりついて、湿気で髪がうねりアホ毛まみれになる夏の夕方。体中が冷え切って、カイロがいくつあっても足りなくて背中を丸めて帰る冬の夜。
一生懸命頑張って何かをやり遂げた時、一生懸命頑張って何も結果が出なかった時、一生懸命頑張っていたつもりなのにただ空回りしていただけの時…。
「あぁ、今日は銭湯に行きたい」
銭湯は私たちの心と体を温めて元気づけてくれる存在だ。
杉並区には杉並浴場組合に加盟している銭湯だけでも19ヶ所があり、うち5ヶ所が高円寺で営業している。いずれも岩盤浴やマッサージ店が併設されているようなスーパー銭湯ではなく、番頭さんのいる昔ながらの銭湯で人々の生活に溶け込んだ店ばかりだ。
エリア別にみると、高円寺南には弁天湯、香藤湯。高円寺北には小杉湯、なみのゆ。新高円寺駅近くの梅里エリアには杉並湯がある。北と南に2ヶ所づつ+α・・な~んていいバランスじゃないの。今回のコラムでは 高円寺南をメインエリアにしているので、弁天湯に向かうとする。
■弁天湯でじゃぼんとつかる
弁天湯は、龍の鳥居のくだりで登場した馬橋稲荷神社から歩いて5分ほど。通り過ぎてしまいそうになるくらい街とのなじみ感はさすがまちの銭湯。コインランドリーももちろん併設されている。
玄関をはいるとロビーがあり、右手にいる番頭ブースを境に男女が左右に分かれるシステムだ。(悪いがここからは写真はないので想像してほしい)
ロビーにはテレビと大きなソファあり。牛乳、オロナミンCにビールもあり。風呂上がりのパタパタ用のうちわも完備。まさに銭湯らしい風呂上がりの過ごし方提案がなされている。
さて、風呂上がりにロビーで過ごす自分の姿を想像しながら、520円の入浴料(令和5年7月10日現在)を払って脱衣所へ。浴室からはカコーンと音が響いてくる。
どことは言わずいつも思うのだが、「鍵をなくした場合は○千円かかります。また翌日でないと開きません」というロッカーの文言にはいつも怯えてしまう。わざと鍵をなくそうなんてこれぽっちも思ってはいないのだが、ふいに手首から落ちて浴槽で行方不明になってそのうち排水に落ちてしまったら(?)私は裸で番頭さんにロッカーを開けてくださいませと訴えなくてはいけないのだろうか。恐ろしいことだ。
話を戻し、押せば数秒お湯が出てくるプッシュ式の蛇口と固定式のシャワーヘッドをうまく使い髪と体を洗い上げる。この弁天湯がいいのは上に荷物置きブースがあることだ。石鹸やタオル、シャンプーなどを置いておける網がとても便利、ありがとう。
壁絵は富士山と桜。少し熱めだから体を慣らしながらゆっくり入る。
それほど大きな浴槽ではないが、水流でほぐすジェット風呂やピリピリとした刺激で体の痛みを和らげる電気風呂がありバリエーション豊かで飽きないつくりだ。
ケロリンの黄色い風呂桶も風呂椅子も女性向けか、やや小ぶりなつくりなのがいい感じ。高い天井、隅々まで掃除されたことが分かるタイルの境目、清潔感と視界が大きく広がるのが家のお風呂と違うところ。
銭湯はいつも明るく輝いて、どんな私でも受け入れて元気をくれる。ふっ~。
■家に帰るまでが銭湯タイム
入浴料分入っていたいという欲は叶わず15分もつかれば体もぽかぽか。さっさとあがり、余韻を楽しむ。
大きな鏡に自分の姿を映してみたり、体重計にのってみたり、ゆっくり着替えた後はマッサージチェアに体をゆだねてみたり。ロビーに出たらテレビをバックミュージックにうちわでパタパタ、ふだん読まない新聞をゆっくり開いて目に入った記事をいくつかかいつまんでみたり、番頭さんに話しかけたりして、一連の銭湯儀礼を終えることにする。
「どうも、また来ます」
社交辞令じゃなく、本気のまた来ますの挨拶をおいて外に出れば夜の風がほてった体にちょうどいい。あぁ~夏だなぁ。家に帰るまでの道のりだって銭湯の余韻で夢み心地。つい歌ってしまう、声の大きさなんて気にせずに。
■銭湯のある街はいい街
ゆるやかに人とつながれるのが銭湯だ。話さなくてもいい。リアルに生きている人々の、それぞれの人生を垣間見ることで、人の“存在”を感じられることが重要だ。
母親が子どもの髪を洗ってあげる姿には懐かしさを、子どもが高齢の親を連れゆっくり脱衣所に手を引いていく姿には母へ感謝を。人の姿を自分に置き換え感じる様々な想いや愛情が人間としての共通項となり、人とつながれるのだ。
ちょっと話しかけてもいいだろう、何気ない会話を楽しむのもいいだろう。でも話さなかったとしても、人として同じ想いを共有していることはどこか安心感につながるものだ。
高円寺に限ったことではないだろうが、高円寺という街のもつ気取らない人間らしさや人との距離感と銭湯の相性はあまりにいい。
人とつながろうとしなくても、どこかつながっている。それが銭湯でありそれが高円寺なのかもしれない。
(つづく)
<出典>